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II 小学校の現場から

6 2006年2月6日 退職を決意した。それは・・・

新井 富子(全群馬教職員組合教育研究所員)

 今年の2月6日、私は退職を決意し、3月31日付けで退職の辞令を受け取った。定年まで3年を残しての退職だった。通算34年間の教員生活だった。
 始まりは、佐波の境町立采女小学校だった。采女小に新任として赴任していなかったなら今の私はなかっただろう。そしてもしかしたら、まだ教員を続けていたかも知れない。それも、体制にどっぷりと漬かった鼻持ちならない教員として。

 采女小で、教育の原点を学んだ。斎藤喜博先生の教育が生きていた時代だった。初めてもらった給料で『マカレンコ全集』を買い揃え、一生懸命読んだ。職員室で、マカレンコが、ルソーが、斎藤喜博が・・・と、話題の中にそんな名前が往き交っていたから。文学作品を授業でどう読ませるのかも学んだ。新美南吉、千葉省三、椋鳩十、斎藤隆介などの作品をしっかりと読みとる力を采女の子は持っていた。丸山亜季さんもときどき学校に見えて、歌や、リズムの指導をしていた。子どもたちは、ピアノのリズムにのって、体全体を使い自分の思いを力一杯表現していた。体育でも絵でも、子どもたちの持っている力をどう引き出していったら良いか、それが毎日の話題だった。校内研修だとか、教材研究だとかの時間を作るまでもなく、いつも子どもたちを中心に生み出していく仕事について、当時の先輩の先生方は熱く語っていた。今、振り返ってみると、毎日がなんとアカデミックな職員室であったのだろうと、あらためて思う。
 そこでスタートを切ってしまった私は、子どもの見方も、教材の組みたて方も、授業での子どもとの遣り取りも、常に心の中に、体の中に采女小が生きていた。教育は文化を伝えることであり、子どもの瞳は輝くものであり、歌声は空高く響くものであると信じて、毎日模索しつつ子どもたちと関わり、退職するその日まで元気いっぱいで過ごしてきた。
 30余年前も今も、子どもたちの本質は、少しも変わってはいない。本物の学びを体験すれば、子どもたちは、素直に喜び、瞳も声も背筋ものびやかに晴ればれとしてくるものだ。子どもたちと一緒に喜び、新しい発見を重ね成長していく日々は、私に老いることすら、忘れさせるほどだった。
 しかし、ふと気付き、辺りを見まわすと、職員室に子どもを語る幸せな明るい声はなく、職員は脇目も振らず、自分の事務机の上のパソコンに向かっている。「聞いて、聞いて、さっきの国語の授業でねーー」私はそんなふうに話したいのに、話しかける相手など、誰もいない。私の心はシュンとなり、ここが子どもたちを育てる源になる職員室なのかと、よりいっそう淋しさが募る。自分の仕事を仲間と確認しあってこそ、仕事は深まり、前へ進む。しかし今、職場では、自分の仕事など語る教員は誰もいない。語れないのだ。本当の自分の仕事など持たないから。自分の思いを仕事に出してはいけないのだから。教材の質を自ら見極め、自分で考えて授業を組みたててはいけないのだから。初めにマニュアルありきだから。
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 私にとってマニュアルはタブーであった。子どもを育てる教師は常に創造的であらねばならないと思うから。教師用の赤刷り教科書を使って授業している若い教員に、赤刷りの本を持つことをやめないと、いつまでたっても、自分の授業は良くならない旨を話すと、「いいんですか、そんなことして」という顔をする。マニュアルはタブーだなどと言う自分のほうがおかしいのか、と不安になるほどだった。
 創造的であらねばならない教育の場に、今どんどんマニュアルが入り込んできている。マニュアルを必要とする教員が増えてきているからだとも言えなくはないが、それだからではない。教育を規格化することによって教える内容も進度も一律に進められる。つまり規格化された人間を作るのに都合が良いのだ。伊勢崎市の場合、計算や漢字のプリントも教育委員会サイドで作り、全市一斉に学校配布している。そして何点以上何%以上という到達目標さえ出してくる。それを使わず、クラスの子どもたちに毎日、自分で作った漢字プリント(これはまことに使い勝手が良い)をやらせている私などは、当然異端児なのだ。
 さらに教育長通達で「五つの教育プラン」なるものが出され、有無を言わせず各校で取り組むことが義務づけられて来た。疑問があっても質問することすらできず、まさにトップ・ダウンで何でも命令が降りて来る。「五つの教育プラン」の中の一つに「愛燦々プラン」なるものがある。どこかで聞いた演歌の名前だ。これには正直驚いた。そして「新しい人事評価」「キャリア教育」「トレーディングゲーム」「学校評価の導入」「チャレンジスクール」「二学期制の導入」「心のノートの強要」等々・・・これでもかと言うほど、雨のように次から次へと落ちて来る。疑問を持つことなど公立学校の教員として以ての外!と言わんばかりに大手を振って無理難題が上から落ちて来る。
 そこにはもはや、子どもたちのやわらかな心を気遣う配慮のかけらすらない。だから、職員室で教員は、パソコンに向かうしか方法がないのだ。今求められているのは、自分の考えなぞ全く言わない従順な教員だ。職場の仲間(と言えるのだろうか)も「忙しい、忙しい」とは言う。個人的には「変だ、変だ」とも。それなのに、夜は8時9時まで残って仕事をしている。小さな子どもが家で待っているのであろうと思われる子育て中の教員でさえ早くは帰らない。誰も心底大変なのに、どう考えても変なはずなのに、それが全体の声にならない。それが声に出せないのだ。
 だから、結局、私が「変!」と声を出す。それが校長には、邪魔くさかったのかも知れない。目の上のタンコブだったのかも知れない。チクリチクリと刺して来た。教育と全く関わりのないことが(身に着けているものや、持ち物など)気になったのだろうか、いろいろチェックされた。次元の低いことだった。取り合わなかった。私には子どもがいる。日々成長し続ける子どもたちがいれば、目の前に輝く瞳があれば、仕事は最後まで続けられる。そして、「誠実に学び、誠実に語り、誠実に育て」をクラス目標に掲げ、6年生の担任として、みんなでクラスを創ってきた。しっかりと授業をして、自分の考えをきっちり言える自信を身につけて、子どもたちは、のびやかに、しなやかに、たくましく育ってくれた。みんなが「平和について」の作文を残し、中学へと巣立っていった。
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 この1年は私を管理しようとする力と、自由を希求する私の魂との闘いだった。私は負けないと自分の心の中で強く思っていた。だけど、2月6日月曜日午後5時半を回っていただろう。私は、校長室で退職を宣言した。この日、34年間の誇りが軽んじられたから。心の中では、私を慕うたくさんの子どもたちや、その後ろで応援してくれる親たちに「ごめんね」を言いながら。子どもの伸びようとする心は、解りたいと願う心は、采女の時代の子と少しも変わっていないのに、教育現場は、あまりにも変わりすぎていた。熱い血が教育界で通わなくなったのだ。30年前の熱い血をいまだに持ち合わせていた私が時代遅れになっていたとは決して思わない。だけど、教員が物を言わず、考えず上意下達で仕事をしなければならない現実には、同化することができなかった。私のように一つ一つにこだわり、不思議だなと思うと先に流れることのできない不器用な人間は、この教育現場では生きて行けないことがとても良くわかった。今、退職したことに後悔はない。
 マニュアルに合わない子どもが放って置かれたり、規格外だと言って見捨てられてしまう時代が、やって来そうな気がする。教育基本法も崩され、改悪されてしまいそうだ。教育基本法がどう変えられてしまうのかは、教育研究所の学習会で、詳しくわかり易く学ばせてもらった。知れば知るほど怖くなった。学校にこの問題を持ち帰ってみんなで学習会をしなければいけない問題だと思った。しかし、教職員組合も見事に分断され職場会などと言う言葉も死語になってしまった。こんな大事な問題ですら避けて通った方が賢い生き方なのだと思うのか、職員室で話題にさえのぼらない。組合が元気だったころなら、声高く職場から反対の声があがっただろう。現状を憂いている誠実な教員だってたくさんいるはずだ。声を出させなくしている力は怖い。
 退職した今、一番強く思うことは、ひとりでは何もできないし、何も生まれてこないということだ。私がこうして自分と向き合い文章を書く気持ちになれたのも、たくさんの先輩から厖大な力をもらい、たくさんの仲間から良い刺激を受け、やる気をもらい、ともに仕事を考えてこられたからだと思う。
 これから、教育はどんな方向に行ってしまうのだろう。子どもたちが「勝ち組」「負け組」という無気味な言葉で分けられ見捨てられることなど絶対に許されない。簡単に捨てられてなるものかと思う。
 辞めて何ができるかと、今模索中だ。ひとりでは何もできない。幸いにして、教育研究所の方がたと出会い、迎えられた。ここでまた「本物」を学ばせてもらいながら、少しでも何かの力になれたらと思っている。

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