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VI 群馬子どもの権利委員会の取り組み

11 群馬県青少年保護育成条例の「改正」問題

 2006年9月末、群馬県が青少年保護育成条例を青少年健全育成条例に改め、上からの規制や罰則を強化しようとしている、という情報が群馬子どもの権利委員会の1会員から世話人会に寄せられました。「ぐんま住民と自治研究所」とも共同しながら調べてみますと、子どもの自主性を奪い「健全」という行政の価値観に従う責務を県民全体に負わせようとするものだとわかりました。子どもの権利条約の精神に逆行する非民主主義的な動きで、まさに教育基本法「改正」の群馬県版と言ってもいいでしょう。
 しかも、単に群馬だけではなく、全国ほとんどの都道府県で進行している規制強化の動きなのです。それに「ニートや引きこもり」を「青少年」に含め規制しようとするなど、群馬には他よりも突出した部分も見られます。これはたいへんな問題だ   。
 県当局の意見募集期間は10月2日までで、これには間に合いませんでしたが、07年2月の県議会に提案するまでは意見を受け付けるとの答えが担当の課長からありました。また、子どもからの意見は皆無だとも聞きました。そこで、子どもたちや県民の声を集め、「子どもたちの声を届けよう」と緊急シンポジウムも開催して、さまざまな声を集約した意見書を07年1月15日に県当局に提出したのです。
 さらに、県議会が始まる一週間前の2月9日には、群馬保育問題連絡会、全群馬教職員組合教育研究所、群馬県高校教育研究所に呼びかけ、4者共同で「群馬県青少年保護育成条例改正案について慎重に論議すること」を求める請願書を県議会に提出しました。請願書の実質的な部分はこのあと掲載します。
 ほかにも県内の青年、女性団体が学習会や対県交渉や請願を行い、自由法曹団群馬支部も調査に乗り出し、ぐんま自治研の会報は3回の特集を組むなど、運動がひろがりました。請願はいずれも不採択でしたが、「ニートや引きこもりを監護の対象とする」ことが条例案から外されるなど、運動の一定の効果はありました。
 07年10月1日から施行されるこの新条例が不当に濫用されることのないよう、警戒と監視を強めていく必要があると思っています。

請 願 書
2007年2月9日

群馬県議会議長 大澤正明 様


請願者連名 群馬子どもの権利委員会代表 大浦暁生
  群馬保育問題連絡会会長 吉武 徹
  全群馬教職員組合教育研究所  所長 久保田穣
  群馬県高校教育研究所所長 内藤真治
  紹介議員 早川昌枝(自署)


〔請願事項〕 群馬県青少年保護育成条例改正案について慎重に論議すること

〔要旨〕2月県議会に提案予定の群馬県青少年保護育成条例改正案は子どもの権利の観点から見て問題が多く、しかも改正案や問題点が県民に充分知られているとは言えません。改正案の2月県議会上程を見送り、慎重に論議するよう請願いたします。
〔理由〕のびのびと自由に考えて行動する子ども、それを温かく見守り成長を助けてゆくおとな――子どもの権利条約の基本理念もここにあります。ところがそこに「健全」という行政の価値観が持ち込まれ、それに合わせて青少年自身も県民全体も努力するよう強制する今回の条例改正案は、民主主義を希求し人権を擁護する世界の流れに逆行するものと言うほかありません。規制や罰則を強化し、警察の介入を広げ、保護者さえも「監護」の役目をになうなど、多くの問題があります。「青少年」の中に18歳を超えたニートや引きこもりを加え、健全な社会人として成長する責務を負わせるのもきわめて異例です。

群馬県青少年保護育成条例の改正に関する意見

 昨年9月11日、群馬県は青少年保護育成条例の改正案を発表し、10月2日まで県民から意見を募集しました。しかし、県民にあまり知られないうちに募集期間が過ぎ、意見は約80件で少なかったと聞きます。私たちが事の重大さに気づいたのも9月末で、期間中に意見を出すことはできませんでした。現在でも県民にこの事が充分に知られているとは言えず、慎重な論議をお願いする理由のひとつでもあります。
 その後、募集期間後であっても県議会に提案するまでは意見を受け付けるというお答えを担当の課長からいただき、また、子どもからの意見が皆無だともお聞きしました。そこで11月18日、ぐんま子どもの人権宣言合唱団コンサートの会場で子どもたちや県民の声を集め、12月17日には群馬子どもの権利委員会主催の緊急シンポジウムを開いて、弁護士の話や父母の訴えなども聞きました。こうして得られたさまざまな意見を私たち4者の意見とともに集約し、請願の実質的内容としてここに提出する次第です。

(1) 改正案に対する私たち4者の意見
(a)基本理念....
「保護育成条例」を「健全育成条例」に改め、青少年と県民一般の責務を自覚させながら規制を大幅に強化しようというのが、今回の改正の基本的な考え方だと思われます。「保護育成」といえば、のびのびと自主的に行動する子どもたちを温かく見守り、その成長を助けていく意味合いがあります。子どもの権利条約の基本理念もここにあると言えましょう。しかしそこに「健全」という大人の、しかも県当局がつくる価値観が持ち込まれ、それに合わせてみんなが努力するように強制するのでは、監視と罰則で子どもたちは萎縮してしまわないでしょうか。いったい「健全」とは何を意味するのか明確な規定などはなく、きわめて曖昧です。時の為政者や権力者の意のままに解釈され、その意を受けた警官が「違反者」を取り締まることにもなりかねません。
(b)青少年の定義と責務....
「青少年」を18歳未満の者(婚姻した女子を除く)とし、「社会の一員としての自覚と責任」を持てと言いますが、幼児にまでそうした責務を負わせるのでしょうか。また、「ニートや引きこもりなどと呼ばれている若者の世代」を「青少年」の中に入れて、18歳未満と矛盾しています。「健全な社会人として成長するよう努めなければならない」ことを重視するあまり、破綻を来たしたのでしょう。
 最近改正された東京、大阪、栃木などの条例を見ても、青少年自身に責務を課したり、18歳を超えるニートや引きこもりを「青少年」に含めて規制の対象にしたりする例はありません。やはり子どもには外からの圧力や負担を与えることなく、自由にのびのびと成長していってほしいし、大人はそれを助けたい。それが子どもの権利条約の精神でもあります。条例改正案には「子どもの権利」への言及が一言もない。子どもを潜在的な犯罪者とみなして罰則を用意し、警官が取り締まるなど、とんでもない考えです。
(c)県民や事業者の責務....
地域住民も保護者も学校関係者も、そして青少年関連団体も事業者も、すべて責務を自覚して「青少年の健全な育成」に努めなければならない、というのですが、すべての人が一つの価値観を持って行動するのは、一種の全体主義ではありませんか。そのように努めなければ罰則があるというのでは、なおさらそうです。子どもは一人一人個性豊かな存在で、内発的な心の真実を表す行動が「不健全」に見える場合もあるでしょう。親はそうした子どもの最大の理解者であるはずですが、改正案は保護者の役割を現行の「保護」から「監護」に変え、「健全育成」の観点で子どもを監視監督する役目をになわせています。戒厳令下ではないのですから、午後10時から午前4時までの外出に警官の介入を含む厳しい制限と罰則を設けるのもいかがなものでしょうか。

(2)子どもたち自身と県民の意見   アンケートから
 ぐんま子どもの人権宣言合唱団コンサートの会場でアンケートをとり、子どもたち自身と県民の声を聞きました。子どもにもわかるように次のような実例も出しました。
☆ 夜、子ども(18歳未満)が歩いていたら、「不審者に気をつけて」と言われる対象だったのが、「何しているんだ!」と不審者扱いになり、罰せられる。
☆ 一人暮らしの友だちの家に夜10時すぎまでいると、警察の立ち入り調査を受ける。
☆ カラオケ、ゲームセンター、映画館、書店、漫画喫茶、コンビニ、飲食店、喫茶店など、正当な理由がなく夜10時すぎにいると、罰せられるようになる。
☆ インターネットを利用するときは、有害と定められたものを見られなくするフィルタリングをしなければならなくなる。
☆ 「たまには間違ってもいいんだよ」と言ってはいけなくなる。
☆ 子ども自身が健全に育つ自覚を持たなければいけなくなる。
 このような例ですが、もしこの実例が不適当だと言われるのなら、そのように解釈されない条例にしてほしいと思います。県の改正案ではどうしてもこのように読めるのです。
以下、アンケートの回答から抜粋しました。

「ぐんま子どもの人権宣言合唱団」・コンサート会場でのアンケートから(抜粋)

☆こんな条例に変るなんて、知りませんでした。大人の指導力(しつけ力)を棚に上げて、子どもにばかり決まりを押し付けるのはおかしい。夜に子どもが街を歩かなくてはならない状況やこの世の中の風潮を、大人がもう一度しっかり見直すべきだと思います。

☆罰すれば子どもは育つのですか。夜遅くまで子どもが外で遊びまわるのに賛成ではないけれど、警察が調査して罰するというのも納得いきません。きちんと話をすればわかるし、家にいるのが楽しければいつまでも外にいないですよ。学校も楽しく充実していれば、夜遅くまで遊びまわらないと思う。
 それより、金儲けになればなりふりかまわずの商売とか、大人がつくっている社会のほうが問題ですよ。夜10時頃だってイオンとかの大きなショッピングセンターなんて、小さい子をつれた人は、今ゾロゾロですよ。こんな条例ができたら、なにか、朝から晩まで子どもたちはがんじがらめの社会のなかでしか生きられなくなってしまいそう。それで本当に人間らしい心が育つのですか。いろいろ間違うから本当のことがわかるので、間違うことだって大切。人間は機械ではないよ。もっと子どもを信じて「どうしてなのか」気づき合いながら、ゆったりと育ち合うことはできないのでしょうか。

☆「罰があるから〜してはいけない」ということ自体が良くないのでは・・・?罰がなくても、子どもが一人で外出するような環境でなく、もっと、家庭や地域で温かく見守っていきたいと思う。
☆子どもは何が正当であり、何が有害であり、何が健全なのかわからない。わからないからこそ大人の言うことに従う。それが間違っていたとしても、当たっていたとしても。だから大人は正しいことを教える義務がある。しかし、それを乱用してはならない。この条例案は個人のプライバシーを侵害していると思う。そして、子どもの知る権利を侵害している。大人は子どもが正しい人間になるように一生懸命考えているのだろうか。自分たちの考えや義務を振りかざしてはいないだろうか。私たち子どもは大人にとってどんな存在であるかはわからないけれど、大人が考えているより大人のことや考えをわかっていることを知ってほしい。子どもは大人と同じ“人間”なのだから。

☆「子どもを守るため」というよりも、「子どもを管理する」というような意図を感じます。

☆子どもの権利が守られること・自由が奪われないようにする・一人ひとりの交流を大切にして、楽しむ時間を保障して、おとな社会の環境を健全なものにして、子どもたちが安心した社会生活を営めるようにするべきです。子どもを不審者扱いはしないでほしい。罰する理由がないのに、10時過ぎると・・・などはおかしい。怖い思いをさせない明るい社会をおとなが作ることが必要です。

☆夜、家にいて出歩かない方がいいのは、原則的にはそうだろうが、必要があって出ていたり、特別反社会的行為でなくても出ている普通の子もいる。それもこれも全部まとめて一網打尽というのは変だと思う。

☆若い人たちは、いつの時代も「今の若い者は・・・」と言われて育った。こんなことを決めようとしている人も、きっと・・・。子どもをがんじがらめにして、箱入りに育てて、個性を育む教育も国際理解もないように思う。「間違ってはいけない」ってどういう事?人間は間違えて、いろいろなことを経験して育たないと、間違える人の気持ちがわからない教育者ができる。だから、今の教育は理解できない子どもをすくい上げることができない。できる子、できない子にはっきり分かれていってしまうのでは?

☆「たまには間違ってもいいんだよ」って言わないのなら、なんと言うんですか?人はだれでも間違えます。ばんのうの人はいないと思います。

☆絶対におかしいと思う。子どもは悪くない。そうさせた大人が悪い。罰せられる理由は何ですか?すべて、大人がつくったものじゃないんですか?子どもに罰をおしつけるのはおかしい!!私は絶対に反対です。子どもが住みやすく、いきいきと成長できる環境をつくることに力を入れてほしいです。子どもは宝なんだから。

☆子どもだって夜出歩くことはあると思います。不審者扱いにしてほしくないです。

☆「たまには間違ってもいいんだよ」と言ってもらえると、毎日のびのびと生活できます。まちがえることはしょうがないことだと思います。

☆なんでも、かんでも子どもをしめつけるのは良くないと思う。自由には責任が必ずついてくる。子どもの自由は、大人の責任。子どもが自由でいられるためには、大人が見守ること。法でしばる前に大人の方を見直してください。大人がしっかりすれば子どももしっかりできるはず!

☆なぜ注意ではダメなんですか。大人も認める中での自由、行動もあると思います。何でも罰すればいいというのではありません。自分の頭で考えられる子どもに育てなければいけないですよネ。ここにのっている例は認められません。怖いです。

☆子どもに関係あることは、子どもの意見をまっ先に考えてほしい。おとなはいいのに、なぜ子どもはだめなのかおしえてほしい。

☆子どもをまもれるのは大人のせきにん。大人は子どものきもちをわかってほしい。

☆学校でならわない漢字もいっぱいあるし、よく「しっぱいはせいこうのもと」とも言うし、まちがってもいいと思う。夜、子どもがあるいていても「何しているんだ!」と言うのはひどいと思うし、「気をつけてね」と言うのがふつうだと思う。

☆大人にとってはいいことなのかもしれないけど、どんなにいいことでも、子どもにとってどんなことなのか、どういうことなのか、かんがえてから、ほうりつを決めてほしいです。「たまには間違ってもいいんだよ」の言葉は、私にとってはげましのことばなのに、言われなくなっちゃうなんて、「もうだめだ」なんて思って、何もできなくなっちゃうかもしれない・・・きっと。ほかの子どもたちも同じきもちだと思います。

☆“「たまには間違ってもいいんだよ」と言ってはいけなくなる”という例は、間違ったり、失敗をしながら人は成長していくものだから、おかしいと思う。子どもは親の背中を見て育つものです。“子ども自身が健全に育つ自覚を持たなければいけない”という例については自覚を持たせるのが親や学校、町の大人たちの心がけるべきことであり、それを目指していくもの。“いけない”という言い方はやめるべきだと思う。“〜してはダメ”と言ってしめつけるだけが教育ではない。子どもは“〜してはダメ”と言われるとしたがる生き物だから・・・。

☆私の教室には「教室は間違うところだ」と大きな文字で書いてあるのだけれど・・・人は間違いの中で学んで成長していくのに、何でも正しくないといけないのでは、ならば間違いだらけの大人たちはどこへ追いやるつもりなのか。子どもだけが正しく育てなんてムシが良すぎる。
 何が健全なのか、何が不健全なのか、一体誰が決めるんだろう。これからのぐんまの子どもたちに、大人は、罰があるからやめるという発想の人にだけ育てというのか。その発想こそがあまりにも不健全ではないか。

☆わるいのは私たち子どもではないというのはハッキリしています。わるいのは「かぎをかけなければいけない。夜に出歩いてはあぶない」というような世界をつくった大人にもんだいがあるのではないでしょうか。もちろん10時すぎまで出歩いているなんていけないことです。けれど、それがつみをせおうことにつながるというのもちがうことだとおもいます。

(3)父母たちのグループの意見――シンポジウムでの発言から
安中市松井田地区に、不登校やいじめ問題に取り組んでいる父母の会「ぐるーぷ・はらっぱ」があります。緊急シンポジウムで大要次のように発言しました。
 
 群馬県青少年保護育成条例の改正について意見を述べます。
 今回のこの改正といじめは深い関係があると思います。この改正が行われることは、さらにいじめの解決を難しくし、むしろ助長するものとして反対いたします。
 県保護条例は、名前も、保護という文字は消えて、健全育成条例となります。子どもを保護し育てる条例ではなく、大人も子どもも、健全といわれる子どもを育てるためにあらゆる規則を決め、従わせようとしているのが今回の改正です。
 今回の改正は、今までとはとても大きな違いがあり、「子ども自身に」、健全に成長する義務を課したことです。
 まず、いじめと条例との関係を考えますと、毎日新聞11月25日の朝刊に、広木教授という神戸大の教授の記事が載っています。教授は、不登校や少年事件を、現地に足を踏み入れて研究してこられた方ですが、子どもが投げかけるシグナルが「孤立」「落差」「助けを求める権利」の3つのキーワードで示されるといいます。
 その一つ「落差」というのは、学校でがんばっている子は、家でだらしないくらい甘えるというような落差のことを言うのだそうです。本来子どもにはそういう落差があって当たり前で、それでバランスをとっているのですが、今、家でも学校でもよい子が求められているのが現状です。落差もつけられず、バランスをとることができないような生活を強いられています。そのストレスが溜まり、限界に達したとき、弱い標的を見つけていじめになってストレスを解消するというのです。
 広木教授は「子が苦しみの果てに選んだ死を、家族や教師個人の問題に押し付けている。教育の根幹に目を向けてこなかった政治のツケが、今の悲劇に繋がる」とも結んでいますが、教育の根幹、つまり人が育っていくとはどういうことなのか、そのことを長い間本当に教育現場、教育行政は考えてきたのでしょうか。
 学校現場では、お行儀よく話しを聞く、テストはいい点を取るように、一度決めたことは最後まで、という、がんばれと競争しかありません。児童養護施設や家庭裁判所で、触法少年たちの更生に実際に携わって来られた方たちは、子どもは失敗を繰り返しながら、ゆれながら成長するもの、またそういう揺れに対して、思いやる優しさという寛容のない環境で育つと、自分も他人も愛する術を知らず、自暴自棄となる、と異口同音におっしゃいます。
 「失敗を繰り返す」のはなにも子どもに限ったことではなく、大人だってみな、2、3度間違ってから正しい選択が出来るようになるものです。それが成長であり、生きるという事だと思うのです。そういう、ゆれながら育つことを受け入れてくれる教育現場、家庭、地域でしたら、大きな爆発もせず育っていけると思います。
 医学的にも、日体大の正木教授は、子どもの本能と理性は、本能が先に育ち、次にそれを抑制する理性が育ち、またその理性を超える本能が育ち、またそれを超える理性が育つという順になっているので、はじめから抑制ばかりを強いると、本能がどこかでまとめて突出し、抑制力もふさわしい働きを訓練されていないので抑え切れないという育ち方になるといっています。本能の小噴火をさせていかなければ、理性と本能のバランスの取れない子になるということです。
 それを今回の改正では、子ども自身に「健全に成長するために、自ら律し」とあります。いつも、いつも自分からいい子でいなくてはいけないことになります。間違うなんて許されることではなくなります。また家庭にも、地域の人にも、健全に育てるために努力せよ、と課しています。健全育成団体には、県が支援をしてまで、体制を強力にしようとしています。家でも、学校でも、地域でも、「いつもいい子にしてなくちゃいけないよ」と見られていなくてはならない生活が、子どもにとって本当によい環境とは言えません。
 「地域、団体、学校、その他の関係者との強力な体制を整備して」健全育成に努めよとあります。「その他の関係者」とは警察も入るのでしょうか。教育基本法改正案にも同じ言葉が出てきます。そして政府は、「警察も入る」と答弁しています。だとしたら、子どもを警察まで含めて、健全に育っているか監視していくのが、子どもを健全に育てる環境だというのでしょうか。
 そしてそこに、ニート・引きこもりの若い世代も含み、健全な生き方をせよと言います。しかし、本田東大社会教育学教授は「ニートが若者の責任のように言われているが、経済労働分野で具体的実質的な施策が打たれない限り解決しない」と新聞で言っています。ニート・引きこもりの原因をきちんと究明もせず、はじめから不健全な人という扱いになっています。ひどい差別扱いです。
 学校で競争を強いて、地域で優等生を求められ、家庭でもいい子をしなくてはならない。そういう社会で、人間に優劣が付けられていく。役に立つ人、立たない人。社会の一員として貢献している人、してない人。あの人はいい、あの人はだめ。そういうレッテルを貼り合うようになる振り分けが自然と行われていきます。その優等生組に入れない人のことを責めたり、いじめるという風になっていくのではないでしょうか。
 でも本当は誰でも、それぞれの良さがあって、命に優劣はありません。互いに認め合える社会の中で子どもが育っていけば、子ども同士にも認め合える関係が芽生えていくと思います。
 ジャーナリストの江川紹子さんが、文部科学大臣の出した「子どもたちへお願い」という文に、「腹立たしさを感じる。勇気を持って相談しよう、話せばみんなが助けてくれる、というが、話せる人がいない、誰も聞いてくれなかったから、文科大臣にまで手紙を出さなければならなくなったわけでしょう。でも、まだ、そうやって、子どもに要求ばかりしている」と言っています。この条例改正案は、子どもへの要求書と言えましょう。
 江川さんはまた、「大人がやるべきことは、大人は解決のために一生懸命こうやります、ということ。大臣、教育現場、親、近所のおじさん、おばさん、大人すべての本気度が試されている」とも語っています。そうです。本気で大人が考えなくてはなりません。
 でも、「大人は解決のために一生懸命こうやります」と言えたとしても、今の子どもたちに、いじめについて話し合う時間があるでしょうか。学校、塾、お稽古、スポーツクラブ。こんな休む時間さえ許されない子どもたちに、いじめについてじっくり話し合う時間もない。この教育のあり方を考える、そこから始めなければならないのではないでしょうか。
 政治学者の姜尚中さんは、「逃げなさい」といいます。もちろん、逃げることは卑怯でもなんでもないのですから、逃げてしまう。でも、その近所のおじさん、おばさんまでがいい子を要求し、逃げ場さえ失ってしまうのです。改正案では、ますます子どもを追い詰め、死を選ぶしか道はなくなります。
 非行に走る少年は、恵まれない家庭環境や、虐待を受けていたという場合が多いといいます。非行を生まないためには、福祉の現場で、その環境を改善することが先決ではないでしょいうか。警察の権限を強め、監視、罰則を強めることでは解決にならないという事実もあるそうです。国連からも、「非行の防止は警察権の拡大ではいけない、福祉の拡充をもって行うよう」にというガイドラインが制定されています。明らかにこの改正は違反です。
 また、インターネットに、各家庭で未成年者が有害な情報を見られないようにフィルタリング機能をつけるよう課しています。でもこれは、インターネットから情報を得るときに、あなたにとって、見ていい情報かそうでないかは、あなたが決めるのではなく、県が決めます、ということです。自分で情報を得る自由が奪われることになります。これは、基本的人権の侵害です。もちろん子どもの権利条約にも違反しています。子どもによって有害かどうかは、子どもによって違うし、状況によっても違うはずです。
 ですから、何が有害かは自分が決めるもの、一概に誰かが決めるものではないのです。県に決めてもらわなくても、家庭で、親子が、パソコンの使い方をきちんと話し合えばいいことですし、県に決められてしまうことは、家庭で話し合いなどせず、県に従えということです。もしもこの改正を県民が認めてしまったら、それぞれの家庭のルールの基準を、県や、警察で決めてくださっていいですよ、親の私の意見は述べません。知事さん、おまわりさん決めてください、と言っているようなものだと思うのです。
 今回、教育基本法改正案もこの条例改正案も、子どもの育て方に国や県が深く関わろうとしています。そのことを最も恐れ、拒否しなくてはいけない。反対する理由はここにあるのです。
 行政がこう育てなさいと規則で決めてしまえば、そう考えるのがいいこと、と決められてしまいます。いろいろな考えを持つことが禁止されるということです。こうしたらどうか、ああしてみたらと、考える自由がなくなってしまいます。
 考える自由とは、人間にとって最も大切な自由のはずです。基本的人権です。絶対に今回の改正を認めるわけにはいきません。
 「社会の一員としての自覚と責任をもち」という青少年になれと案は言っていますが、そうなるには、規則で押さえつけられてすることではありません。「自分が大切、自分はすばらしい価値がある、それを活かしたい」という気持ちをまず、すべての子どもが持てるように、揺れも含めて見守る社会が実現されていかなくてはなりません。
 そして、互いを認め合える関係が作られれば、そういう気持ちは、自分だけでなく、すべての人が持っていることに気付き、そこから、どうしたら、それぞれの良さが活かされる社会となるか考えるようになると思います。
 それが、人権を考えるということではないでしょうか。
 子ども自らが人権というものに気付き、取り組んだときに、未来を任せることのできる大人へと成長していくのではないかと思います。

改正案を検討し、さまざまな意見を聞いて熟慮した結果、私たち4者としては、残念ながら今回の青少年保護育成条例改正案には賛成できません。改正案を2月県議会に上程することを見送り、慎重な論議をされますよう請願いたします。
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