資料・報告書>パートナー通信

トップへ
基礎報告書パートナー通信アンケート総会その他

 第74号(全16ページ)からの転載です。

パートナー通信

パートナー通信タイトル
2018年7月/No.74(通算90号)

2018年度 「総会」+「共同企画」 報告
総会議事(午前)

◆「今年度活動方針案」を除いた他の議案はすべて承認されましたが、「活動方針案」の「B 活動経過をふまえて」に対しては、「2 子ども自身の自発的自主的な行動を激励し支援する。たとえばこども自身が考えた独自の文案によるカルタ作りを評価し、それが発展していくようにする。」という「追加修正案」が出されました。

◆ これに対して、◎子どもたちの自前のカルタ作りの充実発展を評価する、◎今年2月18日に行われた「子育てシンポジウム」で示された「居場所づくりとあそび」、「権利条約31条(余暇・休息、遊び、芸術、文化)」を具体的な取り組みにして行くうえで大切である、などの意見が出されました。時間的な制約もあり、文言を正確にする必要もあるということで、6月14日の第1回世話人会に最終審議を委託しました。

◆ 第1回世話人会で、上記の追加修正案に加えて、「3」項に「創造的な」を追加する修正案も出され、承認されました。(詳細は同封の「総会議案・決定版」をご覧下さい。)


クリックすると、このページの先頭へ移動します。

第二部 共同企画 (午後)
「セクシュアルマイノリティ(LGBT等)の学習と理解」

 「左利きの方いますか?」「血液型AB型の方いますか?」 講師からの質問にフロアからサッと手が挙がりました。左利きやAB型の人たちの割合は総人口の約7.6%、13人に1人。セクシュアルマイノリティの人の割合と同じだそうです。1学級にすれば2~3人の子どもたちということになります。セクシュアルマイノリティ支援団体『ハレルワ』の当事者お二人から、この問題の基礎的な知識とご自身の体験をお聞きしました。本号ではその体験談の中から子ども期・青年期を中心に紹介します。


〔 星野さん〕
 幼稚園・小学校は男女に関係なく元気に毎日友達と遊んでいました。男女分けが明確にされる中学時代はちょっと辛かったです。男子の友達もいましたが、どちらかというと女の子といると落ち着く、なおかつ中性的な振る舞いが多かったので、一部の特に男子から、オカマっぽいとか気持ち悪いとかよく言われて、そこで嫌な思いをしました。父親からも最近女子とばっかり遊んでいることが目立つがお前は女になりたいのかとか言われ、「あーやだな」と思ったりもして、今思い返してみると、自分がゲイだと自覚したのはこの頃かと思います。

写真

 それでも引きこもりにはならずに学校に頑張って行けたのは、小学校の頃からずっと仲の良かった女の子の友達のお陰です。その子は「差別」という言葉が頭の辞書には無いような子で、その当時はその子にカミングアウトはしなかったのですが、本当にありのままの自分を、普通に一人の人間として受け入れてくれて、一つの居場所があったからだと思います。
 もう1つ中学3年のときに運命的な出会いがありました。体育の授業で同じ班になって仲良くなった男の子がいて、自分としては珍しくその男の子と仲良くしていても全然違和感が無くて、趣味とか波長も合うし、なんかすごい落ち着くなと思いました。後で分かったのですが、その子も自分と同じゲイでした。当時はお互いにカミングアウトしなかったけれど、なんか話していくうちに、自分に近い何かを感じていました。この男の子とも先ほどの女の子とも仲良くしていけたので、ちゃんと居場所があったお陰で中学時代は過ごせて来れたと思います。
 高校では自分のキャラをいじられることはそんなに無くて、ここではカミングアウトもしなくて普通に違和感無く過ごせたと思います。
 高校を卒業して社会人になるのですが、男性なら一度は聞かれる「彼女はいるのか」とか「そろそろ結婚しないのか」とかがありました。はっきりと答えないでいると、「もしかしておまえは・・・なのか」とか「こっち系なのか」とか言われたこともあって嫌な思いをしました。上司のほうはコミュニケーションの一環のつもりなのでしょうが、当事者にすると何回も言われると困ったなあと思うことが多かったです。

クリックすると、このページの先頭へ移動します。

 親へのカミングアウトって一番ハードルが高いです。母親とは仲が良くて恋人の話とか恋愛の話とかもしたかったので、いつかはカミングアウトしたいと思っていました。本当にすごい大変なことなんですけれど、母は結婚は無理にしなくてもいいし、お前の自由なように生きればいいんだよ、といつも言ってくれていたので、受け入れてくれるだろうという確信もありました。でもなかなか言い出せなかったです。
 上毛新聞さんにハレルワの活動の様子を取り上げてもらって、これはいい機会だと思い、その新聞記事をもっていって母親に、これを見て、セクシュアルマイノリティって知ってる、実は僕はここで活動しているんだよね、実は付き合っている人がいて、男の人なんで、という感じで、本当にドキドッキしながらカミングアウトしました。母はわりとすんなり受け入れてくれて、ビックリしたけどなんとなくそんな感じはしてたよ、と言ってくれました。母を泣かせてしまうかなと思ったのに、僕のほうがボロボロ泣いてしまって、本当に胸のつかえが一つ取れたようで、言って良かったなって思いました。
 最後に、最近の僕の日常なんです(写真を示しながら)。お付き合いしている人です。いま二人で同棲しています。ディズニーに、夏祭りに、ハレルワ・メンバーとの活動にと、こんな日常を送っています。同性愛者ってどんな生活をしているの、とよく聞かれるのですが、本当に異性愛者と何ら変わらない生活を送っているということが伝わればいいと思っています。


クリックすると、このページの先頭へ移動します。

〔 間々田さん〕
 幼少期から話します。自分の名前は女の子の名前ですから、将来、改名するんだとずっと思っていました。セクシュアリティはトランスジェンダーです。
 ワーゲンに乗っているのが私です。幼少期は車が大好きで、ウルトラマンも大好きで、どっちかというと男の子が好きなものが好きでした。髪とか服装は親がやってくれるので仕方なかったですが、ある時自分のことをオレって言ったらすごく母に怒られました。女の子なんだからダメだって。
 保育園のとき、仲のいい男の友達が5人ぐらいいたんですけど、親からバレンタインなんだから仲のいい男の子にチョコあげなよとか言われて、なんでチョコあげなくちゃいけないんだ、自分も貰いたいぐらいなのにと思いながら、チョコをあげていました。スカート・ワンピースを着ていたのすが、スカートめくりする男の子がいて、すごく気持ち悪かったんです。でもそれは相手の子が嫌という感覚よりも、なんで自分はそういうことをされる対象なんだろうっていうことへの疑問とか自分への嫌悪のようなものがすでにありました。
 それまで髪が長く腰ぐらいまであったけれど、ずっと「切りたい」って切り出せないでいました。6年生の臨海学校のとき、海に入って乾かないのが嫌だから短くしたいと、やっとショートヘアにさせて貰って、すごい解放された感じがありました。このときに同性・女の子が好きだという気持ちはあったんですけれど、そのこととか、自分の体の違和感とか、それを大人とか周りにどう伝えたらいいかまだ分からなくて、ずっと悩んで、誰にも言えない小学校6年間でしたね。
 中学生になって、自分はあまり目立たないように過ごしていたというか、やっぱりなにか隠しているような感覚を持っていて、それを悟られたくなくて、あまり目立たないようにしている生徒でした。家庭科の授業だったと思います。自分のライフプランを作ろうというのがあり、何歳で進学、就職、結婚、出産する、そういうことを書かなければいけなかった。周りの人たちは、何時何時こういう人と結婚するみたいな、わりとすんなり書いていて、でも自分はそういう将来を思い描くことができなかったんです。すごく苦痛でした。
 第二次性徴で胸が膨らんできたりとか、生理が来たりとか、自分の体がますます嫌になってくる時期でした。中学2年まで生理がなかったのですが、たまたま2年とも女性の担任だったので、家庭訪問で母親から、まだ生理が来ないんですよみたいな相談を自分の目の前でされていて、ヤダっと思いながら、黙って聞いているしかありませんでした。 

クリックすると、このページの先頭へ移動します。

 ある日一人の友達が図書館で一冊の本を見せてくれました。自殺についての本で、非常にナーバス な内容でしたが、その中に、同性愛者、性同一性障害の人の自殺未遂の率が高いとありました。でも友達が、そう書いてあるけどまあ死ぬなよ、みたいな感じで言ってくれていたと思います。
 ただ3年生の後半にクラスの中で急に無視されるようになって、クラスに非常に居ずらくて、休み時間他のクラスに逃げたりもしていたのですが、そこでも女子に目を付けられて、ほんとに居場所が無い、もう休み時間は突っ伏して周りを見ない、音を聞かないようにするしかなかった。そういう3年生の後半でした。
 高校は頑張って勉強して、まあ自分の希望と言うよりは親の希望で、女子の進学校に進みました。結構男の子っぽくして、それを周りの子たちも受け入れてくれていて、冬の制服ではスラックスをはいていたのですが、春になってまたスカートに戻ると、なんか女装してるみたいと友達に言われたりしました。中学のときよりはもっと友達に自分のセクシュアリティの話ができたりとか、そういった友達がいたお陰で高校生活は送れたと思っています。
 親へのカミングアウトは高3の終わりごろでした。大学も親の希望で県内に。でも大学に行ってまで女性として生活したくない、大学の入学式で男性のスーツを着たいと思って、そこで親に伝えました。本当に否定されるのは怖かったです。親から最初は「あり得ない」とか「ずっと娘だと思っていたのに」とかいろいろ言われたんですが、ついに折れてくれました。大学は専攻の一学年が少ない人数で、ほんとうにみんなが受け入れてくれて良かったです。
 教育実習のときは、大学から男性として実習に臨みたいという話を伝えてもらっていましたが、その頃はまだ教育の中でもセクシュアルマイノリティ・LGBTのことは全然知られていなくて、厄介者みたいな感じになってしまいました。中学校では、あの先生男?女?と授業中クスクスおしゃべりされたりとか、小学校では、子どもたちはジェンダーが理解できないからカブトムシのオス・メスしかわからないとか言われたりもしました。そういった中でもう教員にはなれないなと思ってしまいました。
 では一般就職で、というときに、やっぱり履歴書に男女の性別欄がある。女子高という経歴も消せない。写真は男性のスーツを着ている、といった感じで、ちぐはぐな状態なんです。けれど、備考欄に「性同一性障害で男性として就職したい」と書いて出しました。なかなか面接までたどり着くことが難しかったです。

(この後、現在の社会生活や法的・制度的な課題、同性パートナーシップなどについても話されました。文責:加藤彰男)


クリックすると、このページの先頭へ移動します。
inserted by FC2 system