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 第54号(全16ページ)のからの転載です。

パートナー通信

パートナー通信タイトル
2013年7月 /No.54(通算70号)

2013年度「総会」第二部
「公開シンポジウム」の概要報告

 第二部・公開シンポジウム『体罰を考えるーなぜなくならないか』は「ぐんま教育文化フォーラム」と共同して企画しました。パネリストは山西哲郎さん(立正大学教授)、松本稔さん(県立中央中等教育学校教諭)、須田章七郎さん(元高校教諭)、小山潤也さん(大学生)。コーディネーターは針谷正紀さん(教育ぐんまネットワーク)。体罰の実態調査報告を県教育委員会の西村琢巳さんにお願いしました。

開会挨拶:大浦暁生(群馬子どもの権利委員会代表) 
 きょうはようこそお出でくださいました。群馬子どもの権利委員会は「子どもの権利条約」を広めることが第一の仕事ですが、その条約にも体罰にかかわると解釈できる部分があります。教育への権利を扱った28条の第2項で、「学校の規律」は「子どもの人間的尊厳に適合する方法で」運用しなければならない、と言っているのです。
 このシンポジウムでも、きっと教育の問題に深くかかわるすぐれた問題提起がなされ、熱心な討論が行われるものと、心から期待しております。


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コーディネーターの問題提起:針谷正紀さん  今回の体罰問題が社会問題として浮上したのは昨年12月、大阪市立桜宮高校バスケットボール部の主将が自死し、監督の教諭が日常的に行っていた体罰がそれと関係のあることが明らかになったからでした。しかし、発端は部活の問題でもその後さまざまな論議がなされ、教育活動全体の中で体罰の問題を考える方向が出てきたように思います。
 そのことを踏まえて、群馬子どもの権利委員会とぐんま教育文化フォーラムの共同企画として、このシンポジウムは開催されます。パネリストの内容豊かな発言だけでなく、県教育委員会の西村さんを含め、フロアーからの発言も積極的にお願いします。部活に限定せずにこの問題を全体的に討議しようと、さきほどパネリストとも確認しました。


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須田章七郎さんの発言
須田章七郎さん  教職についた人であれば、体罰とか言葉の暴力に無縁だと言いきれる人は、たぶんいないのではないでしょうか。私は38年間高校現場に勤めていましたが、教師は一国一城の主で、教科指導にしても生活指導にしても、同僚教師がやることに横から口を出すことはほとんどできないんですね。たとえば職員室で隣の先生が大きな声で生徒を怒鳴りとばしているのを見ても、その先生の立場もあるしなあ、まあ仕方ないか、といった微妙な心の判断で、その場をそのままにしてしまうのです。
 ある高校に赴任したとき、集会の終りに生徒指導主事がステージに上がって、いきなり「おまえら正座しろ」と怒鳴りました。生徒たちは一瞬戸惑いましたが、「正座しろ」と何度も言われて、全校生徒が体育館のフロアーに正座したわけですね。これに私は抵抗感がありました。翌日朝の打ち合せで、これを言わないとこの学校に勤める自分の存在がなくなるような気がして、まあ勇気を振り絞って手をあげたのです。正座させる必要があったのか、と校長の見解を求めました。でも、教育的指導だと一蹴されました。
 この学校は体罰が常態化していたんです。ある運動部の顧問教師が毎日昼休みに部長を呼ぶんですね。ふんぞり返って、「うん、きょうはこういうメニューでやっとけ」とやるわけです。それを見ていた若い先生が、これが顧問のやることだと思ったんでしょうね。毎日昼休みに部長を放送で呼び出す。生徒が来て「ハイッ、ハイッ」と答える。私はその若い先生に、こんなパフォーマンスはやめたほうがいいよと言いました。こんなことが起こってくるのは、やっぱり教師としてひとつの威厳を見せたいということですかね。
 私は専門が書道ですが、30代のころはいっこうに筆を持って書かない生徒がいると、早く書けなんて怒ったりもしましたけれど、30代後半から見方がすこし変わったのは、この高校に勤めてからです。この子たちもいろんな環境の中で育ってきて、ああ、きょうはたぶん筆を持って書く雰囲気にはなれないんだろうなと、そういう思いに立ったとき、「きょうは書かなくてもいいよ」と言えるようになりました。子どもたちをどう見ていくのかということと、この体罰の問題は繋がってくるかなって、思っています。


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松本稔さんの発言
松本稔さん  私は生徒を叩いたことがありません。叩かれたこともありません。たぶん叩かれると痛いだろうなと思うんで、イヤですよね。自分が嫌なことは生徒にはしないようにと思っております。全国優勝したことのある監督さんのチームと試合したとき、送りバントを失敗した選手がベンチ前に戻ってくると、いきなりパンパンとやるんですね。それを見てイヤだなあと思って、ほんとうはそういう強い監督の強い学校と試合して勉強させてもらいたいんですが、二度ともうしたくないなって思います。
 指導者には自分自身の考え方、哲学的なものが必要かな、と私は思っております。高校野球は松本さんにとっては何ですかと質問されると、「まあ遊びでしょうね、これは」と答えてきました。収入も得ず自発的にやっているし、すること自体がおもしろいわけですから、これは遊びだな、修行をしているんではないと。そして、10年後よりもやっぱり今が大事だという視点も、いつも頭に入れていました。野球が好きでグラウンドに出てきた子どもたちが「ああきょうはおもしろかった」と帰ってほしい、という思いです。
 スポーツや野球をなにかの手段にしたくないな、という気持ちはずっと持っています。それから、私はあまり腹を立てるほうではありません。野球はミスのスポーツですから、ミスは当たり前です。部員がミスしたとき、おれがどのように指導すればこの子はもっといい結果をだせたかな、といつも振り返るようにしています。子どもたちがうまくいかなかったのは、指導者であるおれのせいだと思うようにしています。やはり勉強しないと指導者はダメだ、と感じます。自分の指導法を考えても、大学や大学院で勉強したことが基になっています。私は「技術」を大事にします。練習を見ていて「おお、今のよかったね」とほめたり、「もっとこうしてみて」「ああしてみて」とうるさく言ったりします。もう一方で、人間関係をうまく維持することが最高の結果を出すとすれば、どこかで生徒を叩いたらそれでおしまいだ、という気はするんですよね。


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小山潤也さんの発言
小山潤也さん  自分は小学生のころから子どものキャンプに参加していました。高校生からは指導者になり、大学生のいまも年間1か月以上子どもたちと山の中でキャンプをしています。
 キャンプをしていると、子どもに腹が立つことはたくさんあります。1週間もキャンプをしていると子ども同士殴り合いのけんかが始まります。自分も1週間するとかなりのストレスがたまってくるんですね。ほんのちょっとしたことでキレてしまいそうになる。仲間の指導者の中には、子どもにキレて手をあげてしまい、訴訟になっているケースもあります。でもこれは、指導者を管理する運営者側の体制がまったく整っていなかった。不備なキャンプだったんですね。それと同じようなことは、学校の中にもありませんか。
 自分はキャンプの中で子もを叩いたりはしませんし、させません。ただ、3歳児にも6年生にも同じナイフを1本持たせ、できればお箸を作らせます。だいたい3歳児がナイフを使うと手を切るんですね。血を出します。痛いんです。すると、次に使うときは痛い思いをしないように工夫しますし、そのナイフを使って他人を痛い目にあわせることもしないでしょう。使い方を間違えると人を殺めてしまうことも、きちんと教えます。
 子どもたちには指導者のことをリーダーと呼ばせ、先生とは絶対に呼ばせません。同じキャンプにいるお兄さんの気持ちです。叱るときもありますけど、自分は子どもと同じ目線に立つか目線より下げて叱るようにします。小さい子であれば膝をついて、子どもの顔の高さで叱ります。手を握って叱ります。小さい子は手を握るとですね、自然とこちらの顔を見て注意を聞いてくれます。上から見ている目線ではダメで、同じ目線に立って手を握ると真剣に聞いてくれるんですね。自分は前に参加者だったとき、こういう叱り方をリーダーからされていたのでした。また、自分は子どもと触れ合うとき、相手を否定するのではなく、相手を認めるような形で接するように心掛けています。


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山西哲郎さんの発言
山西哲郎さん  僕はいま日本体育学会、6千人いるんですけど、その一応総まとめ的な立場にいます。この体罰・暴力問題や、学校の柔道の授業で事故死が多い問題などが起こっていますが、学会は研究者や指導者の学術的な場ですから、現場に行かないし現場を知らない、またその必要もない人が多いのです。けれども、こういう問題があると責任を感じまして、体罰の問題では「声明」を出しました。もっと多様な研究があっていいと思います。きょうは現場の先生がたのお話を聞いて、学会に持ち帰りたいと思っています。
 僕は暴力をふるわれたことはありませんけど、「言葉の暴力」はやっぱりふるいましたね。筑波大学で箱根駅伝のコーチとして伴走をやったときです。最初はほめるんですよ。でも10キロ過ぎて調子が出ないと「なにやってんだ、おまえは」、そして15キロ過ぎると「もう来年は使わない」です。でもあのころの学生は後ろを振り返って、「先生、静かにしてください」と言いましたよ。だから僕も「そうか」とゆっくりにした。箱根駅伝って勝利優先、マスコミと大学の宣伝でしょ。負ければ監督は辞めさせられるのですから、ああいう叱咤激励もするわけです。そういう状況を作ってしまうのですよ。
 大学生のころ、外国から来たいちばん新しい本を読みますと、マラソンを走るトレーニング方法は書いてあっても、暴力とか体罰とか叱るとか、なにも書いてない。そこでその本を書いた人のところへ行って尋ねてみると、スポーツはピース、平和だと言われてですね、やはり暴力はおかしいんだと思って帰ってきたわけです。スポーツは「気晴らし」で人権の一つだというようなことを、高校や大学の授業でもっと教えたほうがいい。総合的な学問としての「体育」科が成り立っていないのではないか、と思うんですよ。
 そう考えると、やはり「言葉」は大切ですね。僕らスポーツの世界には言葉があまりない。だから僕は、大学の授業でも言葉を書かせるんです。言葉、それが体育実技のいちばん大切なことだ、といま感じています。部活動にしても、言葉があれば、先生と言葉で対話できる間柄であればですね、体罰は出てこないでしょう。スポーツには公益性がありますから、日本体育学会も言葉で社会と対話していく必要があると思います。


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西村琢巳さん(県教育委員会学校人事課)の報告
西村琢巳さん  体罰の実態調査を報告させていただきます。文部科学省からの依頼・指示等による実態調査で、文部科学省に報告した内容は、先日新聞発表等も行いました。
 調査対象は群馬県内の公立学校に勤務する教職員、それに児童生徒とその保護者です。教職員には、文部科学省が示す「体罰の考え方」をアンケートに同封して配布しました。体罰は「身体に対する侵害や肉体的苦痛を与える行為」だというのです。調査の結果、小学校57件、中学校73件、高等学校28件、特別支援学校1件の計159件が報告されました。小学校は授業中、中学・高校は部活動中の体罰がもっとも多く、小・中・高とも平手で叩くが最多で、次が拳で叩く、あるいは部活動の道具で叩くでした。
 教育委員会としての今後の対応ですが、基本的には体罰は児童生徒の人権侵害であるという点に立って、指導したいと考えています。さらに、管理職や一人ひとりの教職員が単独で指導している中で起こることも多いので、研修会等を利用して複数で指導したり、その生徒を職員室に呼んで単独でなく指導したりするようお願いしています。また、県教育委員会作成の『体罰に関するガイドライン』も活用してほしいと思います。
 なお、西村さんの報告の中で、「生徒を職員室に呼んで単独でなく指導する」とあることについて、「職員室の先生方の目が光っている中で、それを圧力として指導することにならないか」という疑問が出され、西村さんから「単独で指導している中で体罰が起こる可能性が高いので、それを避ける方法論として言っており、けっして圧力をかける意図はありません」という答えがありました。


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パネリストたち2回目の発言から
 松本さん:お話をうかがって、とても勉強になりました。教師も世の中の人もいろいろいるから社会ができているので、価値観も複数持っていないとうまくいかない気がしました。自分の考え方が絶対正しくてそれを押しつけるのでは、問題が出てくると思います。学校も一つの小さな社会だとすれば、裁判所みたいな場所があってもいい。たとえば生徒指導部で、生徒と先生がうまくいかなかったら、中立的に判断してくれる場です。
 小山さん:「言葉を使えば体罰はなくなる」ということ、その通りだと思います。自分は小学校1年生から和太鼓をやっていましたが、あるとき強化練習で来た若い指導者が、ほんとうに細かく具体的に、言葉を使って指導してくれました。言葉でわからないところは、身振り手振りで自らの体を使ってわからせてくれました。おかげで全国大会にも出られましたし、体罰や力でなく言葉によって自分が技術的にも人間的にも成長したと感じました。
 須田さん:私は自転車競技部の顧問もしてきましたが、ロンドン・オリンピックに出場した教え子が同窓会誌に「須田先生が自主性を尊重してくれたことがとてもよかった」と書いてくれました。スポーツとはそういうものだと思うんです。これやれ、あれやれって言って成果をあげるのではなく、やっぱり自分で練習メニューを作ったり、どうしたらいいか考えたりする。そういうのをサポートするのが顧問の役目かなと思います。
 山西さん:「言葉」の前に「感じる」ということがあります。僕たちの世界は「身体」ですから、「気持ちいい」「気分が悪い」、ここから話は始まるんですね。感じたことを言葉にしていくんです。スポーツは楽しむためにある手段だと思います。だから研究にしろ指導にしろ、ベースは自分らしくやれ、自分のための自分らしいものをやれ、ということになります。体育学会といいますが、ほんとうは楽しい「楽会」なんですよ。


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フロアー発言の中から
会場

  • ◇私も須田さんと同じような経験があります。あまりにひどいので生徒指導などの会議で声をあげたのですが、「これは熱心にやってることだし、これで生徒は良くなっている」といった意見が多く、非常にショックを受けました。本当に自分の価値観がグラグラと崩れるような経験でした。
  • ◇15歳のときに敗戦でした。陛下のために立派な生徒になれと叩かれました。では、今は誰のためと考えると、先生は「お前のため」と言い、スポーツでは「学校のため」「郷土のため」が出てくる。子たちは体罰を止めてもらいたいと思っていても言えない。これがいえる子どもにどうやたらできるのでしょうか。
  • ◇パネリストのお話にすごく共感するところが多くて、「部活は遊びだよ」なんて初めて聞きました。いままで、部活は「しごき」かと思っていました。きょうのお話で、これは取り組みがいのあることだと思いました。いま指導者の立場になっているご自身が、もっと子どものときの自分が何を求めて、何を感じていたのかということを考え、子どもの目線でやっていただけたら楽しくなるなと感じました。私たち大人が考えなくてはいけないことは、ズーッと大人の論理で走ってきて、体罰に行き着き、暴力に行き着き、死にまで追い込んでいる。やっぱりここで、体罰・暴力を受けている側の子どもはどうなんだということを、きょうのお話と絡めて皆さんで討論できたらいいなと思います。
  • ◇いわゆる「ゆるい指導」「軟弱」という言い方の一方で「毅然とした形で」「一致した指導を」というのが学校現場では良く出てきます。だから、ある意味暴力的なものを背景にした教師が「厳しい」教師で、生徒がそれに服するということがあちこちに出てくるんですね。
  • ◇僕も手をあげたことは一切ありません。そういう心優しいというか、軟弱な体育の教師はいっぱいいます。でも、目立つ方がいて、それが常に問題になってしまう。これはもう戦前からの問題です。逆に言えば体育の教師は犠牲者なんですね。昭和16年から終戦までは「体練科」といって、「練っちゃう」んです。人間の体も心も練っちゃったらどういうことになるか想像できると思います。スポーツの発生を考えればバイオレンスは当たり前ですが、イギリスから教育的に利用してきた歴史があります。この本質を特に体育の先生には知っていてほしいです。
  • ◇県教委が苦労して体罰の調査をやられたことを評価したいと思います。ただ、対症療法ではなく本質的な話で進めてほしいです。PTAの役員をした学校で、バレンタインデーにチョコを持ってこないと決めた。でも、持ってきた生徒がいて、渡された子が皆んなに分けて食べたので一網打尽でつかまり、立たされ叩かれた。それが教育だろうか。細かい規則を作って守らせることが教育ではないのではないかと議論しました。
  • ◇小学校の教師です。子どもは、何と言うんですかね、言葉が届かないでなかなか思うようには動いてくれないことがあります。ついイライラ・カッカしてしまいます。でも、言葉が届くようになると子どもは自然に自分から行動するんです。私が言わなくてもそうなっていく。子ども自身の内面が変わっていくことが、やっぱり教育なんだなあと、きょうのお話で感じました。
  • ◇哲学という話も出ました。私は、子どもが「育つ」、大人も「育つ」というのはどういうことかと、教育の本質を考える必要があると思いました。今日も、言葉ではなかなか伝わらないとか、言葉なんて問題外で直ぐに手が出る、足が出るという話がありました。そういう子どもにどうやって何を伝えるかって、本当にたくさん時間が必要ですね。教育としての本当に大事なノウハウが必要です。子どもにどうやって伝わるのか、子どもの心ってどうやって育っていくのかという部分での議論が深められる必要があると思います。まさに、動かない子どもにも発達する可能性が十分秘められていて、そこをどう見ていくかという気持ちがないと。
こどもの人権カルタの掲示


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閉会挨拶:瀧口典子さん(ぐんま教育文化フォーラム代表)
 みなさん、ありがとうございました。根が深いですね、体罰を起こす土壌というのは。だから文化の土を変えなくてはいけない。だとすれば時間もかかることだし、ちょっと肩の力を抜いて、ゆっくり変えることを一緒にやっていければいいなと思います。そのキーワードはやっぱり「遊び」「楽しむ」かなあと、つくづく思いました。きょうの話をゆっくり反芻しながら、これからのいい土壌づくりを一緒にやってゆきましょう。ほんとうにきょうは、ありがとうございました。



 寄せられた参加者の感想の中から
  • ◆体罰は民主主義の問題だと思います。我々市民が主人公の世の中を民主主義というのですから、その主人公が体罰を受けるということは、おかしなことです。体罰を受けて、"良かった、学び合えた"ということは恐らくないでしょう。楽しく教育を受ける・スポーツをする中で人間として成長するのでしょう。体罰の陰には、指導者の自己満足の目的なり、民主主義とは違った方向に持っていこうとする思いとかがあるのではないでしょうか。民主主義が花開くには時間がかかります。今日のシンポのように、至るところでこの事を話し合うことが大事でしょう。
  • ◆とても重たい体罰問題、自分に照らしながら聞いて胸が苦しくなるようでした。自分の中にある暴力主義と封建主義的なものを強く思い起こされました。
  • ◆多面的な意見を拝聴し自らの中での見解が広がったように思えます。子どもの主体性を重視すべきということを皆さんおっしゃっていたと思います。今、教員を目指して勉強していますが、果たして将来、自分はどのような教師となるのか、不安があります。今回学ばせていただいたこと、特に「自らが楽しむ」ということを忘れずにこれからも頑張りたいと思います。
  • ◆「学校教育での体罰」予防とともに「大人(子ども)の地域のスポーツでの体罰・暴言・セクハラ・パワハラ」の予防にも取り組んでいただきたいです。
(報告まとめ 文責:大浦暁生・加藤彰男)

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